岩井情報館

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祝い鍋
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平将門特集7 延命院   坂東市神田山715
菅生沼を臨む東側台地に、将門の胴塚で有名な「延命院」があります。将門は天慶3年(940年)2月14日、藤原秀郷・平貞盛らの軍と戦っている際に敵の矢を受け、38才の生涯を終えました。将門の首は藤原秀郷によって京に運ばれ、さらし首とされましたが、残された遺体の胴はひそかに神田山(かどやま)に埋葬されたといわれています。地元では将門山とも呼ばれるこの神田山は、将門の胴(からだ)が葬られた山という意味の“からだやま”が転じたものとの説もあります。朝廷からは逆賊とされた将門ですが、葬られたこの地は伊勢神宮の領地である「相馬御厨」と呼ばれた神領だったため、あばかれることなく現在まで残されてきたのだそうです。また、胴塚の西側には昭和50年(1975年)に東京・大手町の将門首塚から移された「南無阿弥陀仏」の石塔婆が建てられています。長い間離されていた首と胴がひとつになったことにより、“地元の英雄に心安らかに眠ってほしい”という人々の願いがようやくかなえられたような気もするのです。

延命院

平将門特集6 富士見の馬場   坂東市岩井2245-5
岩井第一小学校の近く、比較的交通量の多い道路の脇にある小さな緑地が「富士見の馬場跡」です。かつて富士山を眺めることができたこの場所では、平将門が軍馬の訓練をしたり、馬の市を開いたりしていたといわれています。ヴェルフォーレの前庭広場にある「平将門像」は、実にりりしい騎乗姿を私たちに見せてくれていますが、将門には「馬」にまつわる伝説やエピソードが実にたくさんあることはご存知でしょうか? 領内では伊勢神宮へ奉納するための馬も多数飼育していたようですし、将門が安房神社(現・東京大手町付近)を訪れ、神前に自身の飼っていた馬を奉納したという記録も残っています。これは下総・常総地方が古来より馬の名産地であり、当時将門の領内にも大結牧(おおいのまき)・長洲牧(ながすのまき)という馬の牧場があったことにも関係していると思われます。また「将門記」には『竜の如き馬に騎つて、雲の如き従を率いる』や『将門は馬に羅(かか)つて風の如く追い攻む』というような、将門が戦場で実に雄々しく馬を駆って戦う様子が描かれており、軍馬が将門軍の大きな戦力になっていたことがうかがえます。更に、将門が馬を使って行った軍事訓練は、将門の子孫といわれる相馬氏によりに伝えられ、現在の福島県相馬市での「相馬野馬追」として今に残されています。こういったことから馬、そして「富士見の馬場」という場所が、将門にとって軍事・経済両面で、実に重要な役割を果たしていたことは間違いないと思われるのです。

富士見の馬場

平将門特集5 九重の桜   坂東市岩井2454-2
 日本人にとって、桜はやはり特別。各地に「名木」といわれる桜の木がありますが、岩井にも将門ゆかりの桜があるのです。それが石井の井戸の南、田んぼに面したところに立つ「九重の桜」の史跡です。「九重」というのは宮中を指す言葉であり、かつて中国の王城が門を九重に造っていたことから転じた言葉です。ここでいう宮中とは、もちろん天皇のお住まいであった京都の御所を指します。この桜は、将門の後裔を称した猿島郡主・平守明が、京都御所の“紫宸殿”前の有名な「右近の橘・左近の桜」の桜を株分けして将門ゆかりの地に植えたものと伝えられています。平守明が、どうしてこの地に桜を植えようと思ったのかは定かではありませんが、立身出世を求めて京に上りながらも、のちに思いがけない行き違いから結果的に京に反旗をひるがえす結果となってしまった将門の、京に対する憧憬の念を示したのかもしれません。
 ところで、この「左近の桜」について面白い伝承があります。将門が初めて京へ上る少し前の宇多天皇の時世(在位887-897)には、紫宸殿の左近には梅が植えられていたというのです。宇多天皇が建立した仁和寺では、和歌を愛し、桜を愛でた宇多天皇が梅を桜に植え替えたと伝えています。この頃から、和歌に桜が詠まれることが増えてゆき、その後の日本人の桜に対する美意識を変えていく結果となったとのことです。もしも宇多天皇が桜を植え替えていなかったら、この地には梅の花が咲いていたのかもしれませんね。

九重の桜

平将門特集4 石井の井戸   坂東市岩井1627
平将門は、一族間で泥沼の死闘を繰り返していた時期の承平7年(937)年、伯父の良兼らによって豊田館(旧石下町)をはじめとする領内を焼き払われてしまいました。そのため、拠点を島広山の「岩井営所」に移すこととなります。「国王神社縁起演書」には『新しい居を構えようとこの辺りを探し回っていた将門が、のどが渇いて困っていた時、東南の方角から「水」という声が聞こえ、ふと見るとひとりの老翁が立っていた。翁がそばにあった大石を持ち上げ、力いっぱい地面に叩きつけると、おいしい水がこんこんと湧き出し、将門はのどを潤すことができた。不思議に思った将門が、「あなたはどのようなおかたなのでしょう」と問うと翁はかしこまり“久方の光の末の景うつる 岩井を守る翁なりけり”と詠んだのち姿を消してしまった』というような記述があり、このことが将門がこの地に居を構えることを決めたきっかけだとされています。また、「いわい」が「石井」と表記されたのも、この井戸が営所の中心として役割をなしていたためといわれています。「石井の井戸」は永く住民に尊ばれ大切にされてきましたが、今は井戸としての役目を終え、緑園の中に静かにたたずんでいます。

石井の井戸

平将門特集3 延命寺   坂東市岩井1111
四方を田んぼに囲まれた森の中にひっそりと立っている、かやぶきの山門と池にかかる石造りの太鼓橋が印象的な「延命寺」。元々は、平将門の拠点であった石井営所の鬼門除けとして島広山台地に建立されたといわれ、「島の薬師」とも呼ばれています。天慶3年(940年)平貞盛らによって営所が焼き払われた際、将門の守り本尊と称される薬師如来像は密かに移し隠され、世に平穏が戻るのを待って現在の低湿地に祭られました。文安2年(1445)平将門の後裔である相馬氏によって、本堂・山門・薬師堂が建てられましたが、再度の火事に襲われ、山門だけが残りました。薬師堂はその後、有慶上人によって再建されたのですが、これも焼けてしまい、現在立っているのは仮堂です。近郊にない建築様式の山門の威容や、水車の軒丸瓦に用いられた相馬氏の九曜紋からは、相馬氏の将門への尊敬の念と、後裔であるという誇りが表れているような気がします。
写真1  写真2  写真3  写真4

延命寺

平将門特集2 国王神社   坂東市岩井948
うっそうとした杉並木の中を歩いて行くと現れる、静かにたたずむかやぶき屋根の社殿。国王神社は天慶3年(940年)2月、平貞盛らの軍勢が放った矢によって討たれた、平将門終えんの地とされる場所です。創建は天禄3年(972年)で、将門の死後、戦地を逃れていた三女・如蔵尼がこの地に戻り庵を結び、父の33回忌に霊木を見つけて彫りつけたとされる像「寄木造平将門座像」が御神体となっています。1998年7月、茨城県指定文化財にもなっているこの木像が、盗難されるという事件が起こりました。幸い木像は後日無事に発見され、再び国王神社に戻っています。また、江戸期の将門芝居などで見られる「つなぎ馬の紋」の彫刻が祭壇再奥にあり、騎馬合戦が得意だった将門が馬をつなぐことに、“もう二度と戦を起こさない”というメッセージが込められているとも伝えられています。
 朝廷からは逆臣の汚名を着せられていた将門を、下総の民が尊敬・崇拝する気持ち…。それは、この神社が永く地元民の信仰を集め続けてきたことにも表れているのではないでしょうか?

国王神社

平将門特集1 平将門    生年不詳~天慶3年2月14日(940年3月25日)
桓武天皇5代の孫にあたり、父は平良将といわれる。北関東で起こった平氏一門の内紛の調停をしたことが結果的に国司との対立を招き、朝廷から逆賊と見なされる。
 岩井に政庁を置き関東一円を収めた将門は、自ら新皇を名乗り朝廷からの独立国家を目指したが、藤原秀郷(俵藤太)、平貞盛らにより討たれた(承平天慶の乱)。
 将門の胴は神田山(かどやま)に葬られたが、首は京都まで送られ京都大路にさらされた。その首は3ヶ月たっても腐ることもなく、目を開いたままで睨んでいるようだったという。それを見た藤六左近という歌人が「将門は米かみよりぞきられけり 俵藤太がはかりごとにて」と詠んだところ、その首は笑い、白光を放ちながら東方へ飛び立ち、武蔵国豊島郡芝崎町(現在の千代田区大手町)に落ちたなどという伝説もある。
将門は天皇に弓を引いたということから、後世でもたびたび反逆者として問題視され、将門を祭ったいくつかの神社から祭神として外された時期もあった。だが当時、国司の悪政に苦しめられていた下総の民が将門に寄せた期待と同情は大きく、反権力の象徴として人々の崇拝・信仰などを集めたことから、北関東のさまざまな場所に将門塚が建てられた。また、鯉のぼりを上げない、庭に桔梗を植えないといった風習も残っている。

次回は平将門ゆかりの「国王神社」を掲載いたします。

平将門